The Destination is unknown. The Journey is the Reward.

Author: 野澤真一 / NOZAWA Shinichi , version 2.0190217 / Podcast: 七味とーがラジオ / twitter: @melonsode

絶対涅槃ミュージック

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芸能山城組が毎年行うケチャのお祭りがあるという情報を受けて、
ゼミがひけたあとに行ってきた。

芸能山城組 - イベント情報

何年か前からケチャ祭りをやっているのは知っていたのだけど、
なんとなーく時間がなくて行けなかった。

でも今回はそれにあつらえたように時間が空いていて見ることができた。

夕方の6時に到着して、その時はブルガリアの民族合唱と
グルジアの民族合唱をやっていて、遠巻きに見ていた。

それから、なぜかバナナの叩き売りがはじまって、
そこに全身タイツ(黄色)に唐草模様のマント姿のバナナマンが登場して
最初100万円だったバナナが最後300円で売られていた。
バナナマンの奮闘の甲斐あって、最後の方には
それなりに客席がもりあがったけれど、
基本的には会場のひとびとはバナナマンのかけ声を
しーんと眺めているだけだった。
かわいそうになって何度も「買った!」といいそうになったけど、
雰囲気に飲まれて言えず、結局オレも同罪であった。

そのあとに、いよいよガムランの演奏。
ハイパーソニックエフェクトを存分に感じるために、
地面に敷かれた筵の最前列に腰掛けて、音ができるだけ肌にあたるように
そでまくりをして聞いた。

ハイパーソニックエフェクトというのは
日本語にすると超音波効果なわけだけど
人間の可聴領域を外れた高周波成分である超音波を聴く(浴びる)ことで、
"脳が活性化する"というものである。

人間の可聴域はせいぜい20kHzぐらいでそれ以上の音を聞けといわれても、
普通は聞こえない。
だからCDに録音されている音楽の周波数成分も上限は20kHzであるし、
ギターやピアノなど、日常的に目にすることができるような楽器を
鳴らしてもその程度の音域までしかでない。

ところが、ガムランは20kHzどころか100kHzを越える音域まで
音を奏でることができる。
と、まあうんちくはココでもみてください。

ともかくその、ハイパーソニックエフェクトを一度体験してみたかったのだ。

以前聴いた話では
ハイパーソニックエフェクトは音を数分は聞き続けないと
その実感が湧かないということだったけど、
演奏がはじまって2秒ぐらいで即座に自分の体に異変が起こっているのがわかった。
確かに高周波部分がリッチなのもよくわかった。
普段は使わない、10kHzとか20kHzに対応する耳の奥の部分が
久々に出番がきたとばかりに喜んでいた。

そしてさらに2秒ぐらいあとに、
ハイパーソニックエフェクトがどうとかがどうでもよくなった。

音楽が、ひたすらに心地よくて、
「可聴域以上の高周波を本当に感じるのか?」
「ガムランてどんな音でバリの民族音楽はどんなか?」
そういうことを観察しようとする冷静な視点はあっさりと放棄した。

うそみたいなんだ、本当に。
これはきっと天国、いや涅槃で鳴り響いている音楽に違いないと思った。
ガムランの音楽には明確なパターンがない。
パターンは絶えず変化して、
時間が流れているのか止まっているのかわからなくなる。
それでも力強いうねりが心をさらい、
心の中には動きが生まれ続ける。

あんな鍋と蓋をくっつけたみたいな楽器や
どことなく木琴に似た形の楽器や、
おもちゃの猿がもっているような小さなシンバルみたいのや、
日本の鼓を大きくしたような太鼓を20人ぐらいで演奏するのだけど、
精巧さとはほど遠いような原始的な印象を受ける楽器達。
それが一斉に複雑に打ち鳴らされて、
それでいて絶妙に旋律やリズムが絡み合った音を鳴らしているというのは
驚異だった。

確かに手が早く動いているのは分かる。
だけど、その手の動きでどうしてそんな複雑で豊かな音が出るの?
不思議で仕方ない野田kど、それでも確かに音は鳴っている。
そして音が非常な"細部"まで鳴っている。
それは厳密に制御されているのではなく、
楽器や空間に委ねられて鳴る。

演奏者たちの手の動きも複雑だが調和していた。
昔、手話で話しているのをみて、
まるで蝶が舞っているみたいだな、と思ったことがある。
手話の手の動きはひらひらと優美で、複雑で、繊細ではっきりしていた。
演奏者達の手の動きも同じようだった。
確実に規則的な軌跡を描くのだけど、
つぎにどんな軌跡を描くかはまったく予測不可能。

そして踊り。
女性二人が、舞う。
息をのんだ。
ああ、美しいってこういう意味だったんだと、
美しいという言葉の意味をまるではじめて発見したかのようだった。

生々しく優美で途方もなく高貴な舞だった。

体の表面積からしたらごく僅かなはずの目玉の動きが、
まるでその人の体全体の動きのように感じられたり、
肘や肩の角度は変えず両の手首だけが動く動きが
まるでカニッツァの三角形のようにないはずの何か
大きな力や姿がそこに現れているかのように見えた。

動きが速いわけでも強靱な筋力を必要とするわけでもないのに、
信じられないほど動きがダイナミックで、
ひとつひとつの所作・姿勢からは
意味がそのまま具現化しているような象徴性が感じられた。

目が離せなかった。
音楽と踊りで発狂するのと正気を保つのが紙一重の状態になった。
たぶん、一種の意識変性状態だと思う。

見終わった後は、泣きはらした後みたいに、
頭を締め付けるような微かな頭痛を感じてぼーっとした。
それこそ涙を流した後にそっくりな感覚。

ガムラン演奏が一時間続いたあとは、
しばらく準備に時間がかかった後、ケチャだった。
この頃には、住友ビルの前の広場は人でぎっしりと埋め尽くされていた。

ケチャは中学のときに音楽の授業でやったことがある。
僕の行ってた中学は地元の何の変哲もない普通の公立校だったのだけど、
何故かそのときの音楽の先生が、
芸能山城組でAKIRAの制作にも関わった松本智津子先生で
中一の時の担任の先生でもあった。
この先生が和田あき子バリに豪気な人で、
音楽の授業でケチャをやるぜと言い出した。

当時の僕らはケチャのことなんかまるきりわかんないし、
それでもケチャをやること自体はそれほど難しいことではないので、
わけのわからないままケチャをやっていた。
わけがわからなかったけれど、
その時の高揚感だけは覚えている。
「チャ」という音が漫画の擬音のように具現化して
音楽室全体にぎっしり埋まって瞬間ごとにその配置を変えていくような
「チャ」の洪水に包まれて、一種の恍惚状態を味わったのだった。

だから自分の中のケチャのイメージはそんな感じで、
大人数が口々に「チャ」を連発して「チャ」の圧倒的な洪水に
包まれる体験を予想していたけれど、
それはケチャの本来の体験ではないということが今回よくわかった。

男達が幾重にも円上に並んで、
その中心に向かって座る。
円の中心部の空いたスペースが舞台である。
円陣の男達は舞台そのものであり、
波打ったり倒れたり盛り上がったりする舞台装置でもあり、
BGMを奏でる音響装置でもあり、
演舞に華を添える脇役でもある。

そしてその"人間ステージ"の中心で
神話のような物語が演じられる。

先行していたケチャのイメージの騒がしさとは裏腹に、
繊細で神々しさに富んだ物語だった。

民族民謡とか民族舞踊と呼ばれるものに
こんなにも感銘を受けたのははじめてだと思う。

去年、YouTubeを検索してケチャの模様を撮影した動画を見たときと
うけた印象はまったく異なる。
写真が動画の1コマであるように、
動画もあの体験のほんの1コマに過ぎないのだということがよくわかった。
そもそもがYouTubeの動画では音質も画質も不十分すぎる。
CDの音質でさえ、ガムランの音は収録しきれないのだから当然だが。

もしこの生のケチャを見に行く気がないななら、
YouTubeなどでケチャやガムラン音楽の片鱗をみようとしないほうがいい。
まったく別物だから。
そういうので見ただけでは、
ケチャはただの呪術的な儀式にしか見えないだろうし、
ガムランだって騒がしい音楽にしか聞こえないだろう。

なんとこのケチャ祭りは明日と明後日もやっているので、
ちょっと行ってみたいけど、でもちょっとめんどくさいという人は
がんばって閾値を超えてみることをお奨めする。

* * *

去年の関連記事:
Memory of CAK - フェムトセカンド

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