無限に向き合うためのレッスン(自己批評文演習)
東京芸術大学講義 美術解剖学
茂木健一郎
(2006年度 美術解剖学 Lecture 6)
東京芸術大学 上野校地 美術学部 中央棟 第3講義室(2F)
MP3, 38MB, 82分
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[クオリア日記より抜粋]
東京芸術大学。
大浦食堂横のテーブルで
二件ミーティング。
ミーティングの合間に、
仕事を送信。
うーん、タイト。
やっとたどり着いた美術解剖学授業。
二つのことを考えたかった。
ひとつは、無限とか断絶とか、そういった
どうしょうもないことを前にした
感情の働きについて。
芸術とは何か、ということを
考えたとき、どうすることもできない
ことを前にして、私たちの心が
どのような動きをするか、その問題が
本質だと言いたかった。
つまり、進化論の「適応」概念
では直接的には説明できないということである。
もうひとつは、自己批評性の問題。
5月30日の当日記で『吾輩は猫である』
の一部を引用したが、
私は漱石のすぐれた点はその自己批評性に
あると思っている。
批評は、もともと愛をもって他者を
育てるためにあるものである。
だとすれば、自分自身に愛をもって
接し、批評せよ。
ここが出っ張っている、ここが
引っ込んでいると記せ。
漱石のように、自分が貧乏英語教師であること
や、あばた面であることや、
金が欲しくてたまらないのに超然とした
ふりをしていることや、
その他、自分のもっとも弱く、痛い
ところをつき、諧謔のうちに活写せよ。
そうすることが、精神のかたちを
ととのえ、みがき、より美しいものに
していくためにどうしても必要なことである。
大浦食堂地下の生協で買った原稿用紙を
配ると、みんな神妙な顔をしていたが、
やがて書き始めた。
もちろん、私も書いた。
書き終えた人から、前に出て
朗読してもらった。
植田工がやり、蓮沼昌宏が読み、
何人かの女子学生も朗読した。
みな、
おどろくほどあからさまに自分のいた〜い
ことを書いてくれた。
カンドウした。
うれしかった。
布施英利さんも、自作を朗読した。
最後に、杉原信幸も朗読した。
まだまだ続けたかったが、時間に
なってしまった。
なんだかすさまじくもしんみりと思い出深い
授業になったと思う。
あとで、授業に出ていた
芸大生から、
昨晩、私は初めて本気で美術をやめ
ようかと悩んで泣きながら夜を過ごしたのですが、
今日の授業を聞いて、もう少しだけ、あと少しだけ
がんばってみようという力が沸い
て来ました
とメールをいただいた。
伝わったのだ! と思って、うれしかった。
いつものように上野公園でビールを飲んでいると、
杉原がなかなか来ない。
聞くと、「やってしまったあ!」と呆然として、
気持ちが落ち着くまでそのあたりでぶらぶらしていた
のだという。
杉チャンは、それだけエラカッタんだよ。
より高い次元に行けるように、
自分をきちんと客観的に見て、
突き放すことができたんだ。
みんなの前でやるのは、ちょっと
恥ずかしいけどね。
誤解なきように。成功した著名な
作家、芸術家や、今世間で喝采されている
クリエーターの中に、自己批評のない
人などいくらでもいる。
裸の王様のまま、歴史に残っている
人もいる。
だから、漱石のように痛々しいまでの
自己批評性は、クリエーターとして
成功するための必要条件ではない。
しかし、最高のクオリティ
のものをつくるためには、自己批評精神は
不可欠であると思っている。
突き抜けるためには、自分の出っ張っている
ところや引っ込んでいるところを
きちんと見つめることが、
どうしても必要なのだ。
日本のクリエーターにはナルちゃんが
多いと以前から何回か書いているが、
自己批評精神の欠如こそが、
昨今の日本の最大の問題点であると
私は思っている。
だから、本当に良いものが
できないのである。
皆さんも、日本が列強の仲間入りだと
浮かれている時に、『三四郎』にて
広田先生をして
熊本より東京は広い。
東京より日本は広い。日本より頭の中のほうが
広いでしょう。とらわれちゃだめだ。
いくら日本のためを思ったって贔屓
の引き倒しになるばかりだ
と言わしめた漱石の精神に殉じ、
真摯にして曇りのない自己批評文を
書いてみませんか。