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クオリア日記より抜粋
東京文化会館の大会議室は、
昭和的ななつかしい設い。
山崎太郎さんとワーグナーについて
二時間大いに語り合った。
ぴかぴかと光る鉱脈を掘り当てた気分に
なった。
大学時代からの畏友との掛け合いが、
漫才のような
奇妙な面白さに満ちていたのである。
私は相変わらずふらふらと
余計なことを言いながら散らして散る。
山崎さんが、しっかりとした歩みで、
いろいろなことを整理していって
くださる。
スタイルが違う二人がしかし基本的には
同じ方向を幻視し、仮想しているので
やがてぴったりと一致する。
これは、まさに、先日鶴澤清治師匠が
言われていた、
文楽における太夫と三味線の理想的な
関係と同じではないか。
今年は三月の半ばには桜が咲くのでは
ないかと予報されている。
会場にいらしていた
電通の佐々木厚さんがそう言った。
「桜の便り」と、不忍池の
ほとりを歩いていた時に胸の中を
ふっと通り過ぎていった
あたたかいものの感触が重なり、
心が久しぶりにのびのびとした。
山崎太郎さんとの愉しい語らいが
魂をやさしく解きほぐしてくれていたの
だろう。
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山崎太郎さんとお話しているときに、
ワグナーの作品は、フロイトやユングに
先駆けて無意識の重要性を示していたり、
あるいは近代のエコロジー思想に連なる
要素もあるんじゃないかと言ったら、
山崎さんも同意してくださって、
幾つかの興味深い指摘をくださった。
そのことがずっと引っかかっていて、
昨日歩いている時に、インスピレーションが
来た。
一つの芸術作品が、アカデミズムの
最高の形態であるということはあるのでは
ないか。
人間とは何か、世界とはどのように
できあがっているか?
人間はいかに生きるべきか?
人生の喜びや哀しみは何に
由来するのか?
そのような問題についての、
ありとあらゆる学問の最先端、
最深を押さえ、引き受け、
それを論文という形で表現するの
ではなく、
一つの芸術作品として提示する
ということはあり得るのではないか。
ニーチェの詩的な作品は、
やはりアカデミズムの最高の結晶の
一つなのだろう。
プラトンの「饗宴」もまた。
ひとりの人間の生き方の
中に、叡智が結晶するという
こともあるのだろう。
そう考えることは、生きることの
可能性を大いに広げ、燃え立つような
勇気を与えてくれるように思われた。
世の中は、きっと最初から
そのようにできていたのである。